エンターキーを押すと、ナビゲーション部分をスキップし本文へ移動します。

  • ホーム
  • くらしの情報
  • 各務原の魅力
  • イベント
  • 市政情報
  • 事業者の方

現在の位置 : ホームウェブマガジン › 平成30年9月 「忘れない、忘れられない、戦争の記憶」 1ページ目


ここから本文です。

平成30年9月 「忘れない、忘れられない、戦争の記憶」 1ページ目

ID番号 K26102更新日 平成30年9月1日

平成30年9月 「忘れない、忘れられない、戦争の記憶」の画像

平成30年8月15日。平成最後となる終戦記念日は、73回目を迎えました。
日本が太平洋戦争のさなかにあったとき、各務原市にも空襲がありました。戦地に立ち、命を落とした市民もいました。
今回は、戦時中を各務原市で送り当時のことを知る人、そして、海軍パイロットの訓練生である「予科練生」として戦争を体験した人に話を伺いました。消えることのない戦争の記憶は、一度戦争が起これば、どんな小さなまちも巻き込まれる可能性があるのだと教えてくれます。
終戦から73年が経ち、戦争を知る人が少なくなる今、その記憶を後世に語り継いでいくことが、平和な未来にできる一歩だと考えます。
一人一人の幸せやまちのにぎわいは、平和の上に成り立っています。戦争がいつまでも「記憶」であり続けられるよう、私たちは平和に「生かされている」ことを認識する必要があります。

各務原市における大空襲

昭和20(1945)年、太平洋戦争が激化する中、各務原市も空襲の被害を受けました。市内には、川崎航空機工業や三菱重工業の工場などがあり、戦闘機が製造されていました。こうした戦略上の重要性から、各務原の地が攻撃目標となり、B29 爆撃機による爆弾が市内を襲いました。

空襲の記録(昭和20(1945)年)

6月22日

B29 爆撃機が2つの編隊(合計49機)で各務原の上空を飛行し、合計268トンの爆弾を投下しました。使用されたのは2トン爆弾や1トン爆弾で、攻撃目標は川崎航空機工業でした。爆弾が命中し、工場からからたくさんの煙が上がりました。

6月26日

この空襲では、三菱重工業や陸軍航空蔽、技能養成所が被害を受けました。川崎航空機工業の東側へも爆弾が落とされ、空襲は午前9時12分ころから10時まで続きました。この日に使用されたのは250キログラム爆弾で、114機のB29 爆撃機が総重量694トンの爆弾を投下しました。

市民が見た戦争~戦争に翻弄(ほんろう)された小学生時代~

各務原で生まれ育ち、戦争を体験した前渡西町の足立勘二さんに伺いました。日々の暮らしの中にあった戦争。足立さんが、そこで見たものや感じたことを話してもらいました。

小学生で体験した戦争(前渡西町 足立勘二さん)

戦争を意識した生活

足立さんが話すようすの写真

昭和17(1942)年、7歳になる年に前宮国民学校に入学しました。
既に、昭和16(1941)年に真珠湾攻撃があったので、学校生活の中でも戦争が意識されていたことは、よく覚えています。昼の弁当を食べるときに、「箸とらば雨土(あめつち)御代の御恵(おんめぐみ) 父母や師匠の恩を味わえ」と合唱した後に、「兵隊さんありがとう。先生いただきます」と言った言葉は、脳裏に焼き付いてしまって、忘れられないですね。
同じ年に、日本が南方諸島を攻撃して勢力を広げたので、その島々で取れるゴムの木を使って、全国児童にゴムまりが支給されました。遊び道具がもらえて、とても嬉しかったことを覚えています。そうすることで、日本が戦争で優勢であることを何とか誇示しようとしたのだと思います。

物資・食糧事情が深刻に

木曽川の河原を開墾しているようすの写真
木曽川の河原を開墾しているようす

2年生になると、物資の統制が始まり、衣服は切符でしか買えなくなりました。当時8歳で横着ざかりの私は、衣服をすぐに破ってしまい、何度も母親に怒られました。服が破れても、簡単に買うことができないので、母親が嫁入り前に持ってきた着物を、子ども用にリメイクしてもらった服を着ていました。

このころから、食料事情も深刻になってきました。木曽川の河原を開墾して、さつまいもを作ったり、麦をまいて育てたことも覚えています。また、取れる油が戦争に役立つということで、ヒマ(トウゴマ)を栽培したり、ドングリを拾って、学校に持って行きました。日本全体がギリギリの生活をしていました。
 

各務原大空襲、そして終戦へ

校庭でさつまいもを育てるようすの写真
校庭でさつまいもを育てるようす

3年生になった昭和19(1944)年には、防空頭巾の携帯を指示されました。都市空襲も始まり、各務原の上空を高く飛ぶ飛行機をよく見かけるようになりました。校庭は芋畑に変わり、授業中に避難訓練を行ったりしました。音楽の時間は軍歌を歌い、図工の時間は飛行機や軍艦の模型を作るなど、軍国教育の傾向が一層強まっていました。

昭和20(1945)年、6月9日の体験は、思い出しただけでも身震いします。学校に行くと、警報が鳴ったので、帰宅するように言われました。家に帰ると、父親は警防団に出かけて留守にしており、母親は麦刈りをしていました。いつもはもっと上空を飛んでいる飛行機が、「低いところを飛んでいるな」と思った途端、機体がさらに低空を飛行し、自分が立っていた麦畑が暴風でなびきました。麦畑の中に隠れながら見た機体の横腹に、米国のマークが付いていた光景は、体の震えと共に覚えています。その後、6月22日・26日に各務原空襲がありました。
大空襲で、飛行場が機能を果たすことができず、飛行機の疎開が行われました。私の住んでいる前渡の空き地などにも飛行機が置いてあり、整備が行われていました。飛行機を攻撃から守ろうと、掩体壕工事も行われましたが、完成を待たずに、8月15日を迎えました。
(注)「掩体壕」とは、装備や物資、人員などを敵の攻撃から守るための施設

終戦を迎えて

突然の変化に戸惑う

8月15日に戦争が終わると、「学校がなくなる」という噂が広まりました。学校がなくなれば、友達と会えなくなることが寂しく、遅くまで友達と会ってから帰宅したら、心配した両親に怒られました。9月末には進駐軍が入ってきて、初めて間近に見る外国人に驚く一方で、「これからどうなるのかな」と不安に思ったことを覚えています。

黒塗りの教科書の写真
黒塗りの教科書

心配していた学校は再開されましたが、墨塗りの教科書、音楽の時間は軍歌から「おさるのかごや」や「ちんから峠」などの穏やかな歌に変わり、学校の先生も急におとなしく変わってしまいました。いろんなことが一度に変わってしまったので、気持ちが落ち着かなかったです。授業科目は国語・算数のみで、6年生になって社会科の授業が始まりました。

今、振り返って

戦争の記録を眺める足立さんの写真

私は、小学生時代に戦争を体験しました。一緒に暮らした両親は、戦争の中で家族を養っていかなければならない大変さがあったと思います。私は、両親に守られて過ごし、大変さの感じ方はそれほど大きくないのかもしれません。ただ、「一番勉強しなければならなかった時にできなかった」という思いを、ずっと持って生きてきました。だからこそ、今でも市民講座に参加して、あの時の時間を取り戻そうと思っています。

日本は戦争の終わりを迎えても、教育を止めませんでした。そして、戦争をしなかった。そのことが、戦後の復興を遂げた大きな要因だと思っています。今の日本は当然に作られたものではありません。戦争などのさまざまな経験を経て、作られた日本だと思っています。若い世代の皆さんには、どうかそのことを心に留めてもらいたいです。

このページに関するお問い合わせ

広報課 広報係
電話:058-383-1900
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。