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令和2年1月「ペンシルロケット」

ID番号 K32652更新日 令和2年1月1日

ペンシルロケット

「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博:そらはく)」がリニューアルオープンして、1周年を迎えました。
4月からは、宇宙エリアの展示を解説していきます。
解説するのは、博物館や航空機を愛してやまない方ばかり。機体への愛情あふれる皆さんが語る魅力や見るべきポイントをお楽しみください。

第21回目の解説者は、学芸課の加納舞さん

等身大の糸川博士のパネルとペンシルロケットの写真

空宙博の宇宙エリア「S2:宇宙への出発-ロケット-」では、日本のロケット開発のあゆみを展示模型を通して紹介しています。ロケットの展示模型は20分の1サイズでつくられていますが、たった1つだけ実寸大模型があります。その横には等身大の糸川英夫博士のイラストパネルが展示されています。全長230ミリ、直径18ミリの「ペンシルロケット」です。鉛筆(ペンシル)のような形をしたことからこの愛称が生まれました。

加納さんの写真

「ペンシルロケット」は、一人の情熱的な研究者である糸川英夫博士によって開発が始まり、戦後、資源も資金も乏しい中、さまざまな工夫や発想によってロケットの飛翔実験を成功させ、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれています。また、小惑星探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星25143は、博士の名前にちなんで「イトカワ」と命名されました。
日本初のロケット誕生を博士の軌跡と重ね合わせて紹介します。

ペンシルロケットまでの道のり

糸川英夫博士の写真

糸川氏は、東京帝国大学工学部航空工学科を1935年(昭和10年)に卒業し、中島飛行機(現:SUBARU)に入社、名機と謳われた一式戦闘機「隼(はやぶさ)」や二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)」などの設計に携わりました。その後、助教授として大学に戻り戦闘機などの研究を続けていました。1945年(昭和20年)、日本は敗戦により航空機の研究・製造・運用が一切禁止されました(航空禁止令)。糸川氏は代わりに音響工学という音の振動などを調べる研究や、それに関連する脳波の研究をする医療電子工学に取り組みました。
1953年(昭和28年)、医療電子工学研究のために渡米した際、シカゴ大学の図書館で「スペース・メディスン(宇宙医学)」という本と出合いました。それは人間が宇宙に行ったときに人体に起こる影響について書かれた本でした。「ロケットで人間を宇宙に送りこむ」という最先端の研究に触れた糸川氏は、戦後の日本におけるロケット開発の必要性を強く抱いて帰国しました。
アメリカから帰国した糸川氏は、ロケット開発への協力を求めて熱心に国や企業を説いてまわりました。当時ロケットの意義について理解する人が少なく、唯一協力を申し出たのが中島飛行機の後身である富士精密工業(現:IHIエアロスペース社)でした。また、ロケット燃料として使う個体発射薬は、日本油脂(現:日油)武豊工場の村田勉氏が朝鮮戦争で使われていたバズーカ砲の燃料が提供されました。
人脈作りについても進めていた糸川氏は1954年(昭和29年)東京大学の生産技術研究所内にロケットの研究班AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)を組織し、航空工学だけでなく、ジェット研究者、電子工学、土木工学など幅広い分野の研究者に声をかけました。時代は航空禁止令が解禁された後で、世界の航空機の流れはプロペラ機からジェット機へと変わっていました。航空機に替わる糸川氏のロケット旅客機構想は、ジェット機の後追い研究を余儀なくされていた若い研究者たちの心をとらえました。糸川氏のもとへさまざまな専門家が集結し、日本のロケット研究が本格的にスタートしました。

ペンシルロケットの誕生と実験

東京大学生産技術研究所は1957年(昭和32年)からはじまる国際地球観測年(IGY)に使用する観測用ロケットの実験に着手しました。科学技術の総合的成果ともされる観測用ロケットの研究は、長さ230ミリ、直径18ミリ、重さ200グラムのペンシルと呼ばれる超小型ロケットからはじめられました。
ペンシルロケットは、ニトログリセリンとニトロセルロースを主成分にした中空棒状の固体燃料を使い、それを電気的点火線で発火させるという構造でした。機体の素材には戦時中、航空機製造用につくられたまま使われることなく眠っていたジュラルミンが使用されました。
当時、欧米諸国のロケット開発は巨大な試作機をつくった後に縮小したロケットを打ち上げるという、大規模な実験場と莫大な費用がいるものでした。それに対して、ペンシルロケットは極めて小型なので、限られた経費でいろいろな種類のものを数多くつくることができ、それだけ基礎研究のデータを豊富に得ることができました。ここに糸川氏の『逆転の発想』がありました。
最初の実験は1955年(昭和30年)3月11日~23日にかけて、東京都国分寺市にある兵器工場跡地で29機のペンシルロケットが水平発射され、すべて成功しました。ロケットとしては非常に小さく能力も実用に耐えうるものではありませんでしたが、単体でロケットシステムとして成立しており、速度、加速度、ロケットの重心や尾翼の形状による飛翔経路のずれなど、さまざまな基礎的データを得ることができました。同年4月12日には公開実験が行われ成功、日本の宇宙開発の歴史が幕を開けた瞬間でした。

国分寺でのペンシルシリーズの実験写真

ペンシルロケットの最初の発射写真

ペンシルロケットの写真

その後ロケットの大型化が図られたため、同年6月には実験場を当時千葉市にあった生産技術研究所内に移しました。50の船舶用実験水槽を改造したピットにおいて、引き続きロケットを水平発射する実験が行われました。この実験では全長300ミリに大型化したペンシル300型や、二段式ペンシル、無尾翼ペンシルなどが使われました。
いよいよロケットを本格的に上にむかって飛翔実験をおこなうことになりました。東京近郊で実験ができる場所を確保するのが難しいため、同年8月に秋田県の道川海岸でロケットを斜め上方に打ち上げる実験を行いました。使用されたのはペンシル300型で、燃料に含まれていた四塩化チタンにより煙をひきながら16.8秒間ほど飛行した後、700メートル離れた海面に落下しました。到達高度は600メートルでした。
これらの打ち上げ成功を受け、計画はより大型の「ベビーロケット」(直径80ミリ、長さ約1200ミリ、重さ約10キログラム)に受け継がれました。

受け継がれるロケット技術と不屈のチャレンジ精神

ペンシルロケットの写真

ペンシルロケットの飛翔実験データは、IGYを担う次代の「K:カッパ」、「L:ラムダ」、「M:ミュー」など本格的な飛翔実験の際にも有効に活用されました。糸川氏の頭には、ペンシルロケット実験のころから、いずれ日本の技術で人工衛星を打ち上げたいという思いがありました。高度1000キロメートルに達する「ラムダロケット」、さらに高度1万キロメートル以上をめざす「ミューロケット」の計画は、人工衛星の打ち上げを視野に入れて立てられ、1970年(昭和45年)2月11日「おおすみ」の打ち上げ成功によって結実しました。
2003年(平成15年)に小惑星「イトカワ」をめざして旅立った「はやぶさ」は、「M-V(ミューファイブロケット)」で打ち上げられています。2010年(平成22年)6月、日本の小惑星探査機「はやぶさ」が、小惑星イトカワのサンプル(試料)を地球に持ち帰った『はやぶさの奇跡』は、諦めないことの大切さを世界に知らしめました。まさに糸川英夫博士の意思を継ぐ者たちの業績でもありました。

ロケットの実験は成功ばかりではありませんでした。糸川氏は失敗の経験を次の成功に生かすことが大切との考えで、事故の原因を徹底的に調査して記録に残しました。この記録は日本ばかりではなく、世界のその後のロケット開発に生かされています。
日本の宇宙開発におけるペンシルロケットの大きな意義と、この小さなロケットに込められた開発者の情熱とチャレンジ精神を感じてみてください。

このページに関するお問い合わせ

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館
〒504-0924 岐阜県各務原市下切町5丁目1番地
電話:058-386-8500 ファクス:058-386-9912