鵜沼城と大沢次郎左衛門
鵜沼城
鵜沼城は、戦国時代、鵜沼の城山にあったとされる城です。標高95mの城山は、JR鵜沼駅の東側、木曽川に面し、四方は断崖絶壁です。城主は大沢次郎左衛門であったとされます。
永禄八年(1565)、織田信長は木曽川を越えて美濃国に攻め込みました。『信長公記』によると、信長の美濃最初の攻略目標は、斎藤龍興に味方する鵜沼城・猿啄城(さるばみじょう、現坂祝町)であったこと、信長は木曽川のほとりの伊木山に砦(とりで)を築いて美濃への足掛かりにしたことがわかります。なお、伊木山城はもともと斎藤方の城であり、これを池田恒興の家臣・香川長兵衛(後の伊木清兵衛忠次)が攻め取ったと、伊木家の家譜には記されています。
伊木山城が築かれたことで、城を守りきれないと判断した鵜沼城主・大沢次郎左衛門は降伏しました。
年号のない文書ですが、九月九日、織田信長が上杉謙信の重臣・直江景綱に宛てた書状が残っています(『愛知県史 資料編11』四四二号)。井口(岐阜城)の近くに「取出城」を構えたこと、犬山城を落としたこと、金山城を落としたこと、その他数カ所の城を降参させたことを伝えています。「取出」(とりで)は伊木山城のことであり、また降参させた城の一つに鵜沼城も含まれていると考えられます。犬山城落城の年などから、これらは永禄八年(1565)の出来事と思われます。
江戸時代に記された豊臣秀吉の一代記である『太閤記』には、織田信長による美濃攻略の折、秀吉が鵜沼城主・大沢次郎左衛門を調略したことが記されています。信長は「今度は自分を裏切るかもしれない」と、大沢を殺すよう秀吉に命じますが、秀吉は異を唱えます。しかし、信長が聞き入れなかったため、秀吉は大沢を守るため、自ら人質となり大沢を逃がした、というエピソードが記されています。
その後の大沢次郎左衛門については、詳細はわかっていません。天正十年(1582)八月二十四日に柴田勝豊に近江国に領地を与えられた文書(『士林證文』)や、天正十八年(1590)に豊臣秀次に領地を与えられた文書(『愛知県史 資料編13』60号、70号)などで名前を確認できます。
鵜沼城も、これ以降史料に登場しませんが、鵜沼の地は戦略上の重要地点であり続けます。天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉は鵜沼に布陣しました。秀吉は鵜沼から犬山への渡し場を重要視しており、船を集めさせるなど、渡し場の両岸を固めています。鵜沼が補給拠点として重要な役割であったことがうかがえます。
江戸時代以降しばらく、城山は使われなくなります。昭和初期になって、三輪市太郎という実業家が別荘を建てましたが、完成後に急逝しました。建物は犬山の彩雲閣別館として転用されます。戦後は、進駐軍のクラブとして使用され、その後「城山荘」という旅館が営業しました。木曽川を望む風光明媚な旅館として繁昌しましたが、火災や老朽化で、平成十四年に解体撤去されました。
ご注意ください
城山(鵜沼城跡)は立ち入り禁止です。落石などの危険もありますので、柵内に入らないでください。周囲に案内板等はありません。散策は、その立地や風景を、城山の対岸の犬山橋付近や、伊木山の「キューピーの鼻展望台」からお楽しみください。
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