各務原が生んだ歌舞伎スターの宣伝ポスター

ページ番号1011064  更新日 令和3年4月1日

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市川百十郎一座興業広告

市川百十郎一座の興業広告と百十郎の画像
興業広告(上)「塩谷判官」に扮する市川百十郎(下)

この広告は、各務原出身の歌舞伎役者、市川百十郎(いちかわひゃくじゅうろう)一座の公演のものです。

明治15年(1882)、現在の蘇原大島町で生まれた市川百十郎(本名:加藤劒作)は、この地域で盛んな地芝居(素人役者による芝居)に子どものころから親しみ、15歳で上京して歌舞伎役者・中山喜楽(きらく)に弟子入りしました。その後、名古屋を拠点に活動する百十郎が、歌舞伎界のスターとなったきっかけは、「連鎖劇」(れんさげき)の導入でした。連鎖劇とは、舞台上での芝居と、活動写真(今でいう映画)を交互に上演するもので、百十郎はこの連鎖劇を歌舞伎に取り入れ、新聞紙面で「連鎖劇界の重鎮」と呼ばれるほど好評を博しました。

広告は、その連鎖劇の上演を知らせるもので、幅79センチメートル・高さ110センチメートル。演目は、名古屋新聞(現在の中日新聞)の夕刊で連載していた小説「黒蜥蜴の夢」(くろとかげのゆめ)を劇化したもので、当時ヒットした人気の演目でした。「黒蜥蜴の夢」が上演されたのが昭和4年(1929)~9年(1934)ごろのため、広告もこの時期のものと思われます。市川百十郎の屋号である「立花屋」、また連鎖劇の売りである「舞台の出来うる限り まくなし(幕なし=幕間の中断なし)にてご覧に入れます」とのうたい文句が書かれています。上演日や会場が書かれていないことから、同じ内容で大量に印刷し、公演のつど書き加えて貼り出していたのでしょう。

晩年、百十郎は郷里の大島に戻り、地元で地芝居の指導も行いました。今も各務原に残る地芝居の文化、その立役者となった一人の歌舞伎役者の輝かしい日々を今に伝える貴重な資料です。

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