幕府×朝廷「決戦」は各務原

ページ番号1003749  更新日 令和4年11月8日

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幕府×朝廷 決戦は各務原のイラスト

前渡の渡し記念碑の写真
前渡の渡し記念碑(きねんひ)

鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開いた源氏(げんじ)の将軍(しょうぐん)がわずか3代でたえると、幕府から政権(せいけん)を取り戻そうとした朝廷(ちょうてい)は、幕府を倒す命令を全国に出しました。こうして、1221年に起きた戦いが「承久の乱(じょうきゅうのらん)」です。

鎌倉を中心とする東日本(幕府)と、京都を中心とする西日本(朝廷)、この日本を2分した戦いで、両軍の主力が激突したのが木曽川の前渡(まえど)でした。

川に橋がかかっていなかったこの時代、文献(ぶんけん)に「摩免戸(または大豆渡)」として登場する前渡は、川を渡る渡し場のひとつ。木曽川をはさんで、各務原側に陣(じん)どった朝廷軍1万に対し、幕府軍は、10万の兵のうち総大将の北条泰時(ほうじょうやすとき)らが木曽川を渡って攻め込みました。

戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、そしてこの木曽川の戦いが、乱そのものの勝敗も決めてしまいました。

承久の乱では、各務原を含む美濃(みの)の武士たちの多くは朝廷軍に加わっていました。承久の乱が幕府の勝利に終わり、美濃の武士たちは領地の没収(ぼっしゅう)や島流しなど、大きな痛手を受けることになりました。

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承久の乱合戦供養塔の写真
承久の乱合戦供養塔

前渡東町の矢熊山(やぐまやま)に、「承久の乱合戦供養塔(かっせんくようとう)」があります。地域で見つかった石塔(せきとう)を、承久の乱で倒れた兵士たちのため一カ所に集めたものです。矢熊山の山頂には地域の歴史についての解説板があり、戦いがあった木曽川を見下ろすことができます。
(所在地 前渡東町)

事件簿マップ

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