打倒!「ペリー」 大砲練習場が飛行場へ

ページ番号1003761  更新日 令和3年2月12日

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打倒!ペリー 大砲練習場が飛行場へのイラスト

坪内嘉兵衛昌壽の写真
坪内氏(11代・坪内嘉兵衛昌壽)

各務原市の中央部、現在、航空自衛隊岐阜基地(こうくうじえいたいぎふきち)がある場所は、江戸時代(えどじだい)まで何もない広い草原でした。江戸時代の終わりごろ、前渡村(まえどむら)を治めていた坪内氏(つぼうちし)は、この草原「各務野(かかみの)」を、得意とする大砲(たいほう)の練習場に使っていました。1853年、日本へアメリカのペリーが黒船(くろふね)を引きつれ押し寄せると、坪内氏は「何かあれば大砲を持って江戸へ駆けつける」と幕府(ばくふ)へ伝え、各務野で大砲の腕を磨きました。

明治時代(めいじじだい)になると、各務野は陸軍(りくぐん)の大砲演習場(えんしゅうじょう)となりますが、大砲の性能が上がって弾(たま)が演習場をこえて村まで届いてしまう事件が発生。大砲の演習場としては使われなくなりました。

1914年(大正3年)に第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)が始まると、兵器(へいき)としての飛行機が注目されるようになり、1917年、日本2番目の飛行場として「各務ヶ原飛行場(かかみがはらひこうじょう)」が誕生。飛行場ができたことで、周辺には飛行機を作る会社や工場などが次々と作られ、現在の「ものづくりのまち」各務原のベースが形作られました。

Let’s GO! 行ってみよう

大正8年の各務ヶ原飛行場の写真
大正8年の各務ヶ原飛行場

各務ヶ原飛行場や飛行機の工場があることで、1945年(昭和20年)、太平洋戦争(たいへいようせんそう)の終わりに各務原はアメリカ軍(ぐん)による空襲(くうしゅう)を受けました。木曽川文化史料館にある「各務原空襲資料室」では、空襲や戦時中のくらしなどについて学ぶことができます。
(所在地 川島松倉町)

事件簿マップ

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