戦時資料3
当館には市民の皆さんから提供していただいた貴重な資料を多数収蔵しています。ただし、収蔵場所が市内に分散しているため、閲覧をご希望の方は事前に当館までご相談ください。
明治43年~昭和20年 帝国在郷軍人会の歌
帝国在郷軍人会は明治43(西暦1910)年に陸軍当局によって設立された団体である。会員は退役軍人で、軍国主義思想の普及宣伝や国民の軍事能力の維持といった、いわば軍隊と国民を結合する役割を果たしていた。
明治23(西暦1890)年 教育勅語
更木尋常高等小学校(現稲羽西小学校)に安置されていた教育勅語。明治23(西暦1890)年に発布された教育勅語は忠孝を核とした忠君愛国を国民道徳の究極と定めたもので、戦前教育の根本方針となった。
昭和18年頃 克忠克孝の書
蘇原国民学校に贈られた陸軍大将鈴木孝雄氏の書。「克忠克孝」は教育勅語「克ク忠ニ克ク孝ニ」の一節で、天皇に忠義を尽くし、親に孝行するという意味。当時、大将は憧れの的で、その人の書は貴重であった。
昭和7年~14年頃 絵はがき「各務原野球場」
昭和7(西暦1932)年に開設された各務原野球場では中等学校の試合に人気があり、岐阜商業の試合になると満員になったといわれている。
昭和11年 防諜ポスター
中学生が描いた防諜ポスター。戦争の長期化とともに、「スパイに気をつけよう」という防諜のビラやポスターが多くなった。
大正11年頃 写真「航空第二大隊飛行機整備工場」
整備工場内の川崎製サルムソン2A-2型偵察機と自動車所属隊関係者。
昭和12年頃 写真「飛行第二連隊正門」
大正7(西暦1918)年に所沢より「鵜沼(現鵜沼朝日町)に移駐してきた航空第二大隊は、その後大正11年には飛行第二大隊、大正14年には飛行第二連隊、昭和13年には飛行第二戦隊と名称を変え、昭和17年に満州に移動した。
昭和14年 写真「飛行機の献納式」
各務原陸軍航空支廠での飛行機の献納式。政府は規模の大きい献納者や団体に対しては感謝状を発行した。
昭和18年頃 写真「警防団の指導による婦人会の消防訓練」
前宮村で婦人会の消防訓練を指導する前宮村警防団。警防団の任務は、消防、灯火管制、救護、配給、警護など国土防衛が主であった。
昭和18年 写真「女子青年団の救護訓練」
前宮村の女子青年団が前宮小学校(現稲羽東小学校)で救護訓練を行っている写真。女子青年団は小学校卒業後から25歳までの未婚の女性の団体で、銃後奉公活動を活発に行った。
昭和19年 写真「満州建設勤労奉仕隊女子青年部」
勤労奉仕隊として昭和19(西暦1944)年5月から11月の間、岐阜県満州報国農場で奉仕活動を行った。農場におにぎりとお茶を運んでいる。
昭和20年頃 写真「崩壊した川崎航空機の組立工場」
昭和20(西暦1945)年6月の空襲では、各務原飛行場や周辺の工場が大きな被害を受けた。
昭和20年 写真「各務原飛行場の模型」
米軍が各務原飛行場を爆撃するために、作戦用に作ったもの。
昭和21年 写真「進駐軍兵士ロビンソン氏と那加の子どもたち」
進駐軍の軍医としてキャンプ岐阜に勤務していたロビンソン氏と那加の子どもたちのスナップ写真。
昭和54年頃 写真「掘り出された250キログラム爆弾」
昭和54(西暦1979)年、鵜沼三ツ池町地内の関・江南線工事中に高山線の下から発見された米軍投下の250キログラム爆弾。
昭和18年頃 衣料切符
衣料切符はその点数内での衣料品の購入を認めたもので、逆に言えば点数を越えると、それ以上買うことはできなかった。戦時統制下、国民の買うことができた衣料はごくわずかだった。
昭和18年 衣料切符点数表
衣料品店に提示されていた衣料切符点数表。郡部では、年に大人80点であった。
昭和16年 軍需品供出簿
三井自治会文書。戦時中は多くの農作物が軍需品として供出された。
昭和13年秋 各務原競馬番組
各務原競馬場は昭和6(西暦1931)年各務原鉄道苧ヶ瀬駅の南に開設され、昭和13(西暦1938)年秋まで競馬が行われた後、笠松へ統合された
昭和21年 航空機用発動機の現有台数
進駐軍に引き渡された航空機用発動機(エンジン)の現有台数。戦時中、エンジンは各務小学校、下羽栗小学校などに疎開してあった。
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